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旧日本軍 掩体壕

旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕

北緯35度40分05秒 東経139度30分48秒
2017年

〇調布飛行場

調布飛行場は昭和13年に東京府により東京府北多摩郡多磨村(現・府中市)、調布町(現・調布市)、三鷹村(現・三鷹市)にまたがる約50万坪の広大な土地に計画され、農地や寺院などの民有地を買収する形で進められた。

昭和16年4月に官民共同の飛行場として設置されたが、同年8月には陸軍専用の飛行場として使用されるようになり、帝都防空の拠点として「飛行第244戦隊」が置かれ、三式戦闘機「飛燕」など多数の戦闘機が配備された。

戦争末期には、鹿児島県の知覧基地への中継点として、特攻隊の訓練も行われた。

終戦後は進駐軍に接収され、飛行場西側の府中市域には、軍に野菜などを供給するための「調布水耕農場」が建設された。

その後、昭和39年の東京オリンピック開催に伴い、代々木にあったアメリカ軍居住用施設がこの地に移転し、「関東村」と呼ばれた。

関東村は昭和49年12月にアメリカ軍より全面返還され、跡地には大学・病院・福祉施設などが建設された。

平成13年には「東京都調布飛行場」として正式開港し、現在は伊豆諸島方面への空の玄関口として小型機が運航している。

〇掩体壕

アメリカ軍による本土空襲の激化のに伴い、残り少ない貴重な戦闘機を空襲から守り、隠しておくための格納施設が、全国の軍用飛行場周辺に造られた。

この施設のことを一般的に「掩体壕」と呼んでいる。

コンクリート製の屋根のあるものを「有蓋掩体壕」、周囲を土堤で囲ったのみで屋根がなく、上は木や草で造った覆いをかけたものを「無蓋掩体壕」と呼んでいる。

調布飛行場周辺では、昭和19年6月から9月にかけて、有蓋掩体壕が約30基、無蓋掩体壕が約30基造られた。

建設は陸軍と建設業者が中心となり、地元住民や中学生も作業に動員された。

有蓋掩体壕の造り方
@饅頭の様に土を盛り、よく固める
Aその上に紙や筵(むしろ)、セメント袋などを敷き、柱や梁の部分は板枠で型をとる
B鉄筋を置いてコンクリートを流し込む
Cコンクリートが固まったら、内部の土を掘りだして上にかぶせ、草木などで偽装する

この様な手順で構築された。

労力も物資も乏しい戦時下に、粗悪な資材を用いて極めて短期間のうちに造られたものである。

また、こうして造られた掩体壕だけでは数が足りず、格納しきれなかった飛行機は、浅間山や多磨霊園、下石原八幡神社、調布市飛田給方面などの樹木の茂った場所に設けられた「分散秘匿地区」まで運ばれた。

かつて全国に1,000基以上造られた掩体壕であるが、その多くは既に取り壊され、現存しているものも、経年による劣化や開発工事などにより、消滅の危機に晒されているもが少なくない。

〇戦闘機「飛燕」

「飛燕」は旧陸軍の「キ61 三式戦闘機」の愛称である。

川崎航空機製で、ドイツのダイムラーベンツの技術を元に、国産化した液冷エンジンを搭載したスリムなデザインが特徴の戦闘機である。

エンジンの出力は1,100馬力、最高時速590km/hで、旧陸軍の戦闘機の中では速度性能と高空性能に優れており、昭和18年に陸軍の主力戦闘機として正式採用された。

アメリカ軍のB29爆撃機による本土空襲が激しくなる中、迎撃が可能な数少ない戦闘機の一つであり、時には敵機に体当たり攻撃を仕掛けることもあった。

〇旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕

終戦後、調布飛行場周辺の掩体壕も、多くは取り壊され、現在では三鷹市の都立武蔵野の森公園内に2基(大沢1号・2号掩体壕)、府中市内に2基、計4基の有蓋掩体壕が残るのみとなった。

それらのうちの1基が、この旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕である。

白糸台掩体壕は、旧所有者が繰り返し補修を行ってきたことから、これまで良好な状態で保存されてきた。

府中市では平成18年の平和都市宣言20周年を機に、白糸台掩体壕の保存・公有地化を決定し、平成19年12月から平成20年3月まで、その構造などを確認するための調査を実施した。

その結果、戦闘機「飛燕」とほぼ同じ規格で造られていたことが判明したほか、排水設備や砂利敷き、誘導路、実際に機体を収納していたことを示すタイヤの痕跡などが発見され、平成20年に市の史跡に指定された。

その後、コンクリートや鉄筋の保存修理工事を経て、平成23年度に保存整備を実施し、平成24年3月より一般公開を開始した。

終戦から長い年月が経過し、戦争の記憶が風化していく中、戦争遺跡を文化財として保存・活用してゆく気運は全国各地で高まっている。

戦争の悲惨さや平和の尊さを次の世代へと語り継いでいくための貴重な歴史遺産として、永く保存・活用していく。


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